山崎は、漸く出来上がった報告書を手に土方の部屋へ向かった。
先ほどまでは明るかった空ももうすっかり漆黒の闇を江戸の町に落としている。
ふと、彼は目を細めて闇の彼方を見やった。
(あの時も…こんな月のない夜だったよな。)
そう。自分が必要とされなくならない限りここに勤めつづけようと決意したあの時も…


それは、真選組に入隊し監察方に配属された山崎の初任務だった。
任務とは、江戸の町々で攘夷派の情報を探っている密偵から報告書を受け取ってくる事である。
要は「おつかい」である。
監察としては最も簡単な任務であり、まさに初任務にはうってつけの仕事だった。
指定された密偵の潜伏場所(大抵は表向きは真っ当な商売等をして気取られないようにしている)へ、
真選組とは気取られない格好で向かい、それとは分からないように報告書を受け取り屯所へ持ち帰る。
それだけである。監察としてはこの位はなんなくやってのけて当然と言っていいだろう。
「まぁ、この位気張るコトもねぇだろ。」
監察を取り仕切る土方は、山崎に任務前の説明をする時に何処か面倒くさそうな口調で説明の最後にこう付け加えた。
(いっつもキれてる癖に何でこんなにやる気がなさそうなんだろう…)
自分はまだ新入りなので大抵はどやされている先輩達を見ているだけに過ぎないのだが、
この人は、大抵不機嫌に人に怒鳴り散らすか、だるそうにふてぶてしく煙草を吸っているかのどちらかだ。
山崎は職場に…むしろ上司に疑問を持った。

土方に説明された通りに山崎は途中で着替え、
どうみても善良な一般市民というていで、密偵が表の顔として営業している蕎麦屋へ向かった。
いかにも通りすがりという顔でのれんをくぐり、少し奥のカウンターに座る。
客は彼の他には人相の悪い大男と、狐のような顔をしたひょろりとした男がテーブル席に座って蕎麦を黙々と食べていた。
二階にも客がいるらしくがやがやと歓談する声が聞こえた。
「らっしゃい」
店主らしき男が声をかけてきた。山崎はすかさず、
「きつねそば、マヨネーズ大盛で。」
と指定された注文をした。
「承知しやした。」
店主は意味ありげな笑みを返して一礼すると調理を始めた。
(…通じたみたいだな。)
―――――この注文、これは一種の合言葉である。
報告書を受け取りにきた監察は合図としてその度ごとに指定された注文をする。
そして、勘定を払う際に自分が監察であり、報告書を受け取りにきたと示す札を渡す。
この札は紙幣にとても似せて作ってある。
目の前か背後でまじまじと観察しない限り、他人からは紙幣としか見えない代物である。
受け取った密偵は、釣銭・レシートを渡すと見せかけて報告書を監察に手渡すのである。
山崎は、土方に説明された手順を頭の中で反芻した。
(…にしても…。)
反芻するうちに、彼の中でふとした疑問がわきかえってきた。
(…蕎麦にマヨネーズ大盛なんて明らかに不審じゃないんだろうか。)
説明を聞いた時点で、その意図が理解できず彼は副長に聞き返してしまった。
当然危うく殺される所だったので、それ以上は追求する事が出来なかった。
だが、後から先輩に副長が相当のマヨラーである事を教えてもらった。
どうやら副長にしてみれば、「マヨネーズ無しの蕎麦」の方が有り得ないのだろう。
だからといって、その認識を任務にまで持ち込むのはどうかとは思うが…。

「おまち」

山崎がそんな事をぼんやり考えていると、目の前に例のきつねそばがトンと置かれた。
「…… ……。」
山崎は絶句した。
丼の中に蕎麦が見えないくらいうずたかくマヨネーズの山が形成されている。
何だこれは。きつねそばマヨネーズ大盛どころか、マヨネーズそばきつね付ではないか。
山崎は小さく息を吐いて割り箸を手にとりぱきんと二つに割った。
(…きっと…食べなかったら殺されるんだろうな…)
彼は、罰ゲームにでもあっているような気分で箸をつけた。
目の前のマヨネーズの山を少し切り崩して、つゆに溶かす。
それを何回か繰り返した上で漸く顔を覗いた麺をそろそろ引き出し、口へ運ぶ。
(―――――マヨネーズの味しかしないじゃないか。)
辟易した。
だが、食べないで殺されるよりは無理矢理食べた方が何倍もましだ。
見かけどおりに一口だけでもう結構というほどのくどさであったが、山崎は黙々と渋い顔で口に運びつづけた。
結局つゆまで全てたいらげた。山崎は丼をおくなり水を一気にかきこんだ。
だが、その程度でマヨネーズの油の不快感が拭いきれる筈もない。
山崎は渋い顔のまま胃の不快感を堪えるかのように重々しくグラスを置いた。
そのまま立ち上がってカウンタの隅のレジへ代金を払いに向かう。
「これでお願いします。」
何食わぬ顔で例の札を店主に渡す。店主も札を一瞥するとそのまましらりとレジからお札を取り出し数える。
「お釣りになりやす。」
差し出されたものを見ると、釣銭にまぎれて事前に教えられた通りの札が入っていた。
「ども。」
山崎はそのままポケットに押し込んだ。
誰にも気付かれないような位小さく息を吐いた。
(―――――後は、無事に屯所に戻るだけだ。)
ほっとするのはまだ早い。
機密文書を手にした以上、他人の手に渡らぬよう無事に帰らなければならない。
これからが本番なのだ。
「ごちそうさま」
店主に軽く頭を下げて、山崎はそのまま店の出口へと向かった。

―――――異変はその時に起こった。
[][