---事始

「よう、相変わらず仕事熱心だなぁ。」
屯所の一角の書き物机で目の前の書類を必死で埋めていた山崎退は、頭上からの声につと顔を上げた。
背中越しに同僚が自分の手元の報告書を覗き込んでいる。
「さっさと仕上げないと副長に半殺しにされるからな。」
仕事熱心なわけじゃない、と苦笑しながら彼は告げた。
既に期限はとうに過ぎている。しかし書類はなかなか埋まらないのだ。
原因がさぼっていたからではなく何度も書き直しさせられているからというのが辛い所だ。
…正直同僚の暇つぶしに付き合っている暇すらない。山崎は再び書類に意識を向けた。
「あはは…お前しょっちゅうノされてるもんな。運が悪いというかマが悪いというか…俺も同情しちゃうよ。」
同僚はそんな山崎の焦りも露知らず、山崎の境遇を朗らかに哀れんでいる。
「全くだな。」
さっさと何処かへ行ってくれよと思いながら、山崎は生返事をした。

その刹那、不意に突然背後の気配が凍った。
―――――?
どうしたのかと山崎が振り向こうとした瞬間、その凍る背後の更に後方から声が降りかかってきた。

「おぃ、まだおわらねぇのか?」

相手を威圧するようなその声に、山崎は縮み上がるような思いで体を棒のように硬直させて体ごと振り返った。
先ほどまで暢気に山崎にちょっかいをかけていた同僚も、緊張の極みという表情で凍りついている。
その声の主はふてぶてしさにも程があるという態度でそこに立っていた。
真選組副長土方。
隊外の者のみならず隊内の者も「鬼の副長」と陰口を叩くほどの男である。
隊外はともかく隊内に関しては、
鬼のように怖いとか恐ろしいというよりも、常に瞳孔が開き気味でしじゅうあたりにキれまくっているのが原因のようではあるが。
土方は常日頃の例に漏れず、激怒寸前といった声音で山崎を見下しながら叱りつけた。
「何時まで待たせる気だ山崎。オレァ忙しいんだよ。」
「す、すみません!あと少しですんで!」
機嫌悪そうに腕を組み催促する土方に、山崎は上擦った声で早口に答えた。
「ちっ、早く持ってこいよ!」
「は、ハィィ!」
今にもキれそうな土方の様子に、山崎は半ば泣き声状態で返答した。
「……っていうかお前は何サボってる!」
土方は不機嫌ついでに山崎の隣で硬直したままの隊士にも檄を飛ばした。
「はっ!只今休憩中でして…」
山崎と動揺に上擦ったような掠れたような声で彼は答えた。相当緊張しているらしく肩で息をしている。
「それならそれで、こいつの邪魔はしてくれるな。わかったな。」
「すみません…!」
全く…とぶつぶつ言いながら土方は廊下の奥に消えていった。

「はぁぁぁぁ…休憩中とはいえ、任務中に不意に会うとホントビビるよあの人…」
暫くして、土方の気配が消えたと確信したのか同僚がため息混じりに呟いた。
「何であんなにいっつもキれる寸前風味な訳?」
同僚はぐったりした様子で机の脇の壁にもたれかかった。
休憩中でゆるみにゆるんでいた彼の神経に、土方のテンションはかなり堪えたらしい。
彼はそのまま虚ろに空を見ながら続けた。
「ホントさ…俺はあんな副長に毎日のようにノされているお前を見ていると、
今日にも辞表出しちゃうんじゃないかっていつも気が気じゃないよ。」
「―――――へ?」
山崎は物凄く驚いた様子で意外だという目で同僚を見た。
その様子に同僚の方が逆に驚いたというようすでへぇと呟いた。
「へ、じゃないよ。フツーさ、あんな仕打ち受けたら辞めたくもなるのが当然ってモンだろ?
ホントよくもつよな、お前。」
山崎はそれを聞くと朗らかに笑い出した。
「そんな、俺は辞めないって。むしろクビにならない限りいるつもりだし。」
「え、何で?」
同僚はそれきり黙ってしまった。

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