「何するんですか!」
娘が叫んでいる。店主の娘だろうか、店主がはっとしたように二階を見た。
山崎も足を止めて振り返り声のする方を仰いだ。
どかどかと何やら暴れるような物音とともに、男の物凄い怒号が聞こえてくる。
「ここがサツのスパイの根城だってコトはわかってんだ!さっさと調査書を出しな!
出したら命だけは勘弁してやる!」
山崎は、自分の顔からざっと血の気が引くのを感じた。
――運が悪すぎる。初任務でこんな目に遭うなんて。
どうすればいいのかわからず、山崎はそのまま固まったように動けなくなってしまった。
その様子を見かねて店主が斜め後ろからそっと声をかける。
「今のうちに、さあ!」
山崎はその声ではっと我に返った。
そうだ。自分の仕事は監察方なのだ。
このまま店主を置いていくのは忍びないが…確実にこの報告書を持ち帰らなければならない。
この報告書を持ち帰らないと、店主の努力は無になってしまうのだ。
報告書自体が相手の手に渡らない限り、
江戸中に点在しそれぞれに活動している攘夷派の、どの機密情報がこちらに渡ったのかはわからない。
自分さえ無事に帰れれば、ひいては店主の命の安全にも繋がるのである。
そう思い立って山崎は意を決し出口へ進んだ。
だが、その行く手を先ほどまでテーブルにいた大男が阻んだ。
どうやら仲間らしい。悠然と山崎を見下ろしている。
「悪いなあ、兄ちゃん…。残念だが…見られてしまった以上、無事に帰す訳には行かないんでね。」
そういうと大男は剣に手をかけた。
(―――――斬られる!)
抜きざまに斬ろうとした男の剣を山崎はクルリと踵を返し、俊敏な動きで避け男から離れた。
「ほほう、やるねえ兄ちゃん…」
大男は感心したように自分の顎を撫でた。
「何だ?この男は…客か?さっさと斬らないかね。」
すると階段から男が降りてきたらしく、山崎の背後から大男に声をかけた。
振り向くと娘を人質にしている。娘は猿轡をされつつも必死で抵抗している。
大男は申し訳無さそうに頭をかいて、男へ言った。
「いやぁ、そのつもりでいるんだがねえ…」
「お前は何時でもそう暢気なのがいかん。」
二人は悠然と会話をしている。やはり自分の事はただの客だと思っているようだ。
入口が駄目でも二階の窓から屋根伝いに逃げる事も可能だろう。
山崎はそう思い、思い切り男にぶつかりそのまま二階への階段を駆け上がった。
「何!!」
男は思い切りよろめきそのまま娘を放した。それをすかさず店主がかけより娘を男から取り戻す。
「待て兄ちゃん!逃がさないぜ!」
大男が物凄い勢いで階段を駆け上ろうとする。
山崎は素早く階上に登った。
そして階段の踊場脇に積んであった座布団の山を、そのまま思い切り男に向かって投げつけた。
座布団が幾重にも男の視界を妨害する。
「わわわっ!」
階段を半ばまで上りかけていた男はその攻撃にバランスを崩され、
そのまま背中から転げ落ち、先ほどの男の上に落ちた。
二つの悲鳴が聞こえる。
それを聞いて階上にいた仲間が駆け寄ってきた。剣を抜いて山崎の方へ向かってくる。
だが、その構えと気迫からして大した腕ではないようだ。
(―――――これなら複数相手でも問題なさそうだ。)
山崎は自分の背後にあったモップを後ろ手で取った。

余談になるが、監察方は基本的に剣はふるわない。
そのため普段も護衛用の武器はもっていても帯刀はしない。
だが、入隊時には全ての入隊希望者に対して剣の腕が試される。
配属は不変のものではなく、かついざとなったら全員が剣を持って戦わなければならない事も有り得るからだ。
その為、隊士は皆ある程度剣の腕が立った。
勿論山崎も例外ではない。彼の場合は剣だけでなく棒術の心得もある。
下手な隊士よりはよっぽど良い動きをするかもしれない。
そんな彼が監察方に配属されたのは、ひょんなことでその優れた調査能力を買われての事だった。

山崎は手にとったモップで、相手の剣を横ざまに振り払いそのまま腹を思い切り突き、
同時に反対側で振り下ろされたもう一つの剣を受け止めた。
「ぐわっ!」
背後でうめき声が聞こえ、どたりと男の倒れる音が聞こえ、
前では鮮やかにモップの先端が切り落とされた。
勿論これは柄を使いやすくする為の山崎の戦法である。
山崎はそのまま剣を避けて下がり向かってくる敵との間を取る。
「たああっ!」
叫び声と共に敵が剣を振りかざして走りよってきた。
山崎はそれをひょいとかわしそのまま棒で腕を下から上に持ち上げた。
敵が丁度天井を仰ぐような形になった所思い切り胸を叩く。
めりっと少し奇妙な音がして敵は崩れ落ちるように倒れた。
(…折れたかな…。)
力の加減を間違えたらしい。山崎は少し焦った。
だが、そんな事も言っていられない。次から次へと敵が自分へ向かってくる。
続けて2、3人続け様にはらってみたもののきりがない。
山崎は剣を横ざまに払いながら、手元に落ちていた剣を取った。
そのまま剣を受け取め、かわしながら一気に窓へ駆け寄りひょいと乗り越えた。
「おいっ、待て!」
口々に叫ぶ敵達。
その更に後方から、先ほどの大男の声が聞こえた。
「お前たち、あいつを逃がすな!あの腕、只者じゃない!」

屋根に出た山崎はそのままそろそろと屋根を伝った。
流石に屋根は不安定だ。
歩くたびに瓦が微妙にぐらぐらするような錯覚に捕らわれてバランスを崩しそうになる。
何とかして敵の手から逃れなければと必死で山崎は歩いた。
敵も続々と追ってくる。
1人このような場所に慣れているのか妙に身軽な者がいて、あっという間に山崎に追いついてきた。
「やあっ!」
駆け寄りざま思い切り剣を振りかざしてきた。
すんでの所で山崎はかわしたものの、そのままバランスを崩し座り込んでしまった。
男が更に追い討ちをかけるように踏み込んでくる。
斬りつけようとしたその男を避けるように山崎は転がりながら必死で剣を振り抜いた。
視界が鮮血に染まる。返り血が山崎の身に降りかかる。
その先に、先ほどの大男が凄い形相で立っていた。
(―――――まずいな…。)
先ほどの言い振り、そして今のこの状況からしてももうただの客だとは思われていないだろう。
その上ここの足場は悪い。あれだけの気迫を持つ男の剣をかわせるとは到底思えない。
「兄ちゃん…良くもやってくれたなぁ…。うっかり騙されるところだったぜ。
どうやら俺たちが本当に用があったのは兄ちゃんの方みたいだなあ?」
少し勘違いをしているようではあるが、報告書を持っている今となっては男の言う通りだ。
山崎は立ち上がり剣を構えながらぎゅっと唇を噛んだ。
そして、ポケットの中の報告書を思った。
一瞬土方の顔が頭に浮かんだ。だるそうに煙草を吸いながら任務を説明する彼の姿が。
(―――――せめて…報告書だけでもどうにかできないかな…)

―――――その思案が隙になった。

「終わりだぁ!小僧!」
大男の凄まじい気合と剣が降りかかってきた。
「―――――!」
山崎はそのままバランスを崩し後ろに倒れこんだ。

「山崎ィィィィィ!」

その瞬間、同時に空から聞き覚えのある声が降りかかってきた。
視界が朱に染まる。

―――――駄目だ…やられる!
山崎は覚悟してぎゅっと目を閉じた。

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